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油と歴史の話
石高制から貨幣経済へ

徳川幕府は,幕藩体制の財政基盤として,徹底した米本位制度を実施した。いわゆる石高制である。石高制の下では,藩の規模から武士の給与に至るまで,全てが米の生産能力で表され,これに基づいて年貢が課税された。そこから必然的に,各領主は,自家消費分を除いた米を販売し・その代金であらゆる物を購入することとなった。それが市場の形成を促し,貨幣経済を発達させたとも言えるし,逆に,貨幣経済が整っていたから,米本位制度を実行できたとも言える。
領主が米を売る市場としては,天下の台所と呼ばれる大坂に最も多く集中した。貞享5年(1688年)に書かれた井原西鶴の『日本永代蔵』によると,北浜の淀屋米市では,「一刻の間に,五万貰」(2時間に125万石の取り引き)があったとされ,誇張はあるにせよ,相当量の商いがあったとみられる。市場では,信用取り引き,先物取り引きが成立していた。幕府は,しばしば大坂の米市を統制下に置こうとしたが,自由な商売の流れを止めることは出来なかった。江戸では,文政の初め頃(1818年頃),現在の日本橋本町で米の先物取り引きが行われ,いったん中止された後,数年後に現在の蛎殻町で再開された。今日の証券取引所や穀物取引所は,その流れを汲んでいる。
江戸時代は,全体を通して米本位経済と貨幣経済が並立していたと言えるが,その中でも,時代が下るに連れて,より自由な貨幣経済の比率が増していくようになる。領主米の販売のみならず,農民も余剰生産物が増えて換金能力が増していった。貨幣の流通量が増えると,信用経済も発達し,手形決済も日常的に行われるようになった。
手形決済は,中世から存在してはいたが,日常的に行われるようになったのは,江戸時代に入ってからであった。菱垣廻船,樽廻船の発達に伴い,江戸から大坂へ大量の支払いが恒常的になされるようになったことが,為替の利用を日常化させた。その中から,為替業務や貸し付け業務を行う両替商が,信用経済の要として台頭し,大坂商人の頂点に君臨する富豪として急成長を遂げたのである。
貨幣は大きく分けると,全国で通用する幕府の貨幣,各藩が発行する藩札,商人間での私札の3種類があった。幕府が発行する貨幣は,金貨・銀貨・銭貨(銅貨)の3種類に分かれていた。この内,銭貨は補助的な小口の通貨で,大口の取り引きには,西日本では主に銀貨が,東日本では主に金貨が通用していて,はっきり経済圏が分かれていた。しかし一方では全国規模の商取り引きが発達していたので,貨幣の交換比率が重要な問題となっていた。
幕府は,金座・銀座・銭座を設けて鋳造権を独占するとともに,慶長14年(1609年),貨幣の交換比率を金1両=銀50目=永楽銭1貫文=京銭4貫文と定めた。その後,元禄13年(1700年)には,金1両=銀60目=銭4貰文に改定した。しかし,実際には,市場は公定の比率では動かず,その時々の変動相場で取り引きがなされたのである。なお,幕府は度々貨幣の改鋳を行い,金銀の含有率を下げることで利益を上げ,財政赤字の補填に当てた。銭貨については,寛永から寛文期(1624〜1672年)にかけて,寛永通宝が大量に鋳造され,永楽銭を駆逐して,銅貨の統一が成り,全国経済の発展に貢献した。
有力な両替商は,大名に対しても大口の貸し付けを行っていた。かくして,本来,士農工商の身分制度の最下位にあるはずの商人が,実質的には国家の経済を支配することとなり,幕府といえども,意のままに管理すること出来ない状況であった。

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