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油と歴史の話
灯火のはじまりと油脂原料

人類にとって“あかり”の歴史は,すなわち“火”の歴史でもあった。それはまた,“油脂”の歴史でもある。 火を作り出すことを覚えた人類は,長時間にわたって火を絶やさない方法を考え,囲炉裏を生み出し,木を燃やした。 竪穴式住居の縄文人は部屋の真ん中に囲炉裏を作り,この囲炉裏は炊事と暖房と,そして灯火の役割を果たした。 その後,徐々に火をそれぞれの用途に応じて使い分けるようになって行くが,未分化状況は意外に長く残り, 江戸時代でも地方の農家や漁村では,囲炉裏の火が唯一の灯火であった。
 灯火が何時ごろから囲炉裏の火から独立した かは明らかではないが囲炉裏で燃やした時に樹脂を多く含んだ木がひときわ明るく輝いたことから,照明専用の火として使い始めたという説が有力となっている。
 最初は松脂(松ヤニ)を多く含んだ,松の根や幹をそのまま燃やして灯かりと して使ったという。灯かりを絶やさないために,松の根や幹を細かく割り,石や鉄で作った灯台に次々と差し加える形が一般的となった。
 「日本書紀」には,イザナギノ尊とイザナミノ尊が黄泉の国に行ったとき,湯津爪櫛の端の太い歯を折って松明にしたという記述があり,その後長い間こうした松明が灯火として重要な役割を果たしていたと見られる。
 石油の発見も 意外に早く,「日本書紀」には,天智天皇即位の年(668年)に越後地方から燃える水と燃える土が献上されたという記述がある。
 松の根や幹に代わり,油脂類が灯火として何時ごろから使われ始めたかについて明らかにした文献はない。 竪穴式住居跡から発掘された釣手形土器に,灯火器として使われたと推定される痕跡が残っていることから,古墳文化期にすでに 灯火として油脂類が使われていたとも思われるが,実証は全くされていない。
 中世になると灯火の種類も増え,家の中の照明用, 携行用(屋内と屋外),庭のかがり火などにそれぞれ異なる灯火具が使われるようになった。中世の灯火具 としては,灯台,短けい,灯籠などが使われた。灯油も松や杉をそのまま利用する形から,さまざまな油脂類が使われ始めた 。宮本馨太郎氏の「燈火その種類と変遷」では次のように触れられている。「松の木など木を焚く灯りについで,動物や植物の油脂を燃して 灯りとすることが行われたのであろう。海からとった魚を火で焼いた時,その脂がよく 燃えるのを見て,人々はこれを灯りに使うようになったのである。海の幸に恵まれた わが国では,この魚の脂を灯りに使用することは案外早くから行われ・…・・」
  こういった灯火の研究書においても,油脂類が灯火として利用され始めた年代に ついては書かれておらず,大雑把な推定がなされているのみである。一方, 油の歴史から見ると,わが国で初めて榛(はしばみ)の実が灯火用に搾油されたのは, 神功皇后の時代というのが 定説になっており,その種本は「製油録」(大蔵永常著) である。しかし「製油録」は搾油の起源についての記述のほとんどを1810年に刊行された 「搾油濫傷」(衝重兵衛編)に因っている。
 その「搾油濫傷」によると-。
 わが国で初めて 木の実が搾油されたのは神功皇后11年(211年)のことで,摂津の国の住吉大明神(現在の住吉大社 )において行われた神事で灯火がつかわれ,その灯明油として献燈するため同じ摂津の国の遠里小野村において,榛の実が搾油 されたといわれている。遠里小野村はこれにより,社務家から御神領のうち免除の地を与えられたという。これがわが国の搾油の はじまりとされている。
 こうした木の実油から,草種子油へと変わって行くまでには少し時間がかかり,「貞観元年(859年), 城州山崎の社司が初めて長木(ちょうぎ)という道具で荏胡麻油を絞り,禁裏をはじめ石清水八幡宮,離宮八幡宮の灯明油として 献上したのが草種子油の始まりである」(搾油濫腸)と述べられている。
また,「搾油濫傷」では,実際に灯火がどのように使わ れたか,さまざまな文献を収集して紹介しているので,その一部を以下に掲げる。
 孝徳天皇の大化年中(651年),味経宮で2,100人 の僧尼を招請し,一切経を読ませ夕刻,宮殿前の広場で2,700余の灯火を燃やし,安宅経・土側経等を読ませた (難宮安鎮の仏事と推定)(「日本書紀」)。
天武天皇の白鳳年中(673〜686年),河原寺で燃灯供養(多くの火を燃やし仏を供養する 行事)が行われた(「日本書紀」)。
 以上の行事には木実の油が使われたと推定され,8世紀以降はもっぱら草種子油(油火) が用いられるようになったという。
 文武天皇の慶雲2年(705年),日本初の追難の節会で,台盤所の前の協会に小灯台を立ててともした (「日中行事」「公事根源」)。
 孝謙天皇の天宝勝宝6年(754年)正月5日,東大寺に行幸があり,2万の灯を点して天下に大赦を行った (「続日本紀」)。
 弘仁の頃(810〜824),空海が高野山において万灯万花の会(1万の花を仏に供養する法会)を修した(「性霊集」)。
 仏事, 神事とともに灯火が発展し,より明るく,より手軽に,より長時間,灯を維持できる油が求められ,やがて荏胡麻油がその中心的な 地位を占めるようになってゆく。
 しかし,木実油や草実油の油も長く残り,たとえば正暦の頃(990〜995年)には,椿油が売り歩かれ, 長谷寺の灯明に用いられたという記述が「小右記」に見られる。伊勢神宮の灯明油には椿油が使われており,岡崎の太田油脂が椿油を 献納している。
  灯火油の歴史は松脂を多量に含んだ松の根を燃やすことから始まり,魚油,榛油,椿油,胡麻油,荏胡麻油と変化して くるが,これらの油は時代とともに変遷するといったことではなく,それぞれ同時期に重なって使われている。たとえば漁村では魚油を灯火用に使うことが明治時代でも行われていたし,木実油や草実油も使われ続けた。
しかし,9世紀以降,時代を経るごとに荏胡麻油が 圧倒的な地位を占めるに到ったことが推測される。この荏胡麻油の発展は,大山崎で考案された長木による搾油法と無縁ではない。
優れた搾油法の確立とともに,荏胡麻油は全国の社寺や宮廷,貴族階級,武士階級へと着実に浸透し,灯油の市場を席巻するに至る。

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