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油と歴史の話
東京油問屋市場の創設

『東京油問屋市場』が創設されたのは,明治34年3月25日のことである。
 東京油市場の解散後,社会情勢の変化は早く,新しい油脂原料として満州から輸入される大豆が登場し,それまでの手工業的な搾油工場から近代工場へと製油工業が脱皮しつつある中で,油の取引市場の必要性はいやが上にも高まりつつあった。
そこで明治34年に問屋10名,仲買人40名が集まり,東京油問屋市場を開設することとなった。問屋100円,仲買人300円の拠出金を出し,蛎殻町2丁目4番地に事務所が置かれた。初代理事長には岩出條三が就任した。埼玉県の素封家,久米家の5男として生まれた岩出條三は9代岩出惣兵衛の養子として,深川の大手肥料問屋であった岩出惣兵衛商店の石油・植物油を扱う支店の経営を任され,同支店ば日本橋小網町の館野の筋向いに店を構え,後に岩出條三商店として独立した。同氏のモットーは「もうけ過ぎるな,損するな」であったという。もうけ過ぎはお客から嫌われる,ただし商人であるから損はするなと教えた。岩出と島新は太い絆でつながっており,島田新助は岩出の出身であり,島新に婿養子として入ったもの。江戸時代の油問屋の多くは日本橋に集中していたが,維新後の明治,大正と続く時代においても日本橋小網町の岩出,島新,館野の3大油問屋が業界のリーダーとして重きをなしたのである。ちなみに岩出惣兵衛は,明治14年に設立された「油問屋・仲買 油商組合」の頭取であった。
 油の取引は現物売買に限定され,扱われる商品は四日市製油所の星印,大野製油所の丸八印,丹羽製油所の久卜印,熊澤製油所の一川印などが代表銘柄とされ,“伊勢水”と呼ばれる四日市の菜種油が中心を占めた。
 四日市と東京油問屋の結びつきは強く,その後も長い間,伊勢水は東京油問屋組合の会員(大正13年に東京油問屋市場に加盟している大手問屋9社により設立された)だけが独占的に扱うという習慣が続いた。明治に入ってから仲買と問屋の区別が薄れ,仲買が直接地方から仕入れるということも行われたが,伊勢水だけは東京油問屋組合の問屋にしか販売されなかった。
 明治から大正にかけての伊勢水に対する評価は高く,他の地域の菜種油とははっきりした価格差が存在していた。伊勢水4印のうち,久卜印がもっとも高く販売され,次いで一川,星,丸八というのが当時の評価であった。丹羽製油の久卜印が高かったのは,地中に埋めた大甕に菜種原油を1〜2カ月も置きじっくり不純物を沈澱させてから,その上澄みを汲み上げるという手間のかかる方法を取っていたからだという。
明治34年に発足した東京油問屋市場はその後,戦争による統制など紆余曲折はあるものの,実質的な組織は中断することなく20世紀のはじまりから終わりまで100年間を生き抜くことになる。設立当時の会員で100年後も油の商いを続けているのは島商(株)と(株)テノコーポレーションの2社だけである。

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