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油と歴史の話
胡麻油メーカーの今昔

胡麻油はわが国の植物油の歴史の中で,もっとも古い油脂のひとつであり,菜種油とともに植物油の需要を支えてきた。現在の胡麻油メーカーも,それぞれ長い歴史を抱えている。
竹本油脂の創業は亨保10年,三河国御油において初代竹本長三郎が,竹本製油所として搾油業を興したのが最初で,今から275年前のこと。胡麻油の製造を始めたのは,大正の初期,第一世界大戦が大正3年7月に勃発し,満州,南支の胡麻が当時最大の需要国であったドイツヘの輸出が途絶して相場が暴落し,菜種や綿実を絞るよりも胡麻を搾る方が,はるかに有利になったため胡麻を輸入し搾ったのが始まり。竹本油脂と東京油問屋市場のメンバーであるヤマイゲタ館野,ヤマ十島田,カク石藤田,カネ笹萩原,大孫,奥田友三郎,カネ吉飯島,カネカ伊勢屋との取引は大正7〜8年頃からであり,大正12年の関東大震災の折りに,たまたま蒲郡市の新工場が完成していたため,二つの工場から注文通りに納品できたという。これにより竹本油脂は信用を獲得し,以後東京において順調に市場を拡大し,現在に至っている。
岩井の胡麻油は元禄時代に千葉県佐倉で搾油事業(菜種油,胡麻油)を開始したとされているが,詳細については分からない。はっきりしているのは,明治23年に横浜商工会議所に会員(岩井製油)として登録されていること。この時の創業者は岩井総吉とされているが,岩井総吉についての逸話は数多く残されており,日露戦争で大儲けし,神奈川県の戦後三成り金といわれたという。同社は戦前まで胡麻油メーカーとしては日本のトップの位置にあった。
かどや製油は,安政5年に高橋正男の祖父3代政八が小豆島で搾油事業を開始したのが始まり。当時から小豆島の名産であった手延べ素麺用の油として胡麻油を絞り,一部は小売も行った。当時小豆島には67軒の同業者がいたが,手延べ素麺用の油が足りない時は,岡山から買い入れるなどして供給したという。搾油方法は矢絞めといわれる方式で行われた。昭和32年,経営危機に陥ったかどや製油から,東日本総代理店であった小澤商店の小澤直平が経営を譲り受けるとともに,工場を新設し,本格的な胡麻搾油事業に乗り出した。日清食品の即席ラーメン用の揚げ油にゴマ油が使われることを見越しての新工場建設で,これによりかどや製油の胡麻油は急伸長することとなった。当時,小澤商店は,三菱石油の大手ディーラーと同時に植物油も扱っており,かどや製油の東日本総代理店とともに岩井の胡麻油の特約店でもあった。
九鬼産業は前述のように,四日市製油への資本参加を通して製油事業を開始した。四日市の実業家が共同出資して四日市工業を創立したのは明治15年のことで,製油技術を習得するため3名の社員を英国に派遣した。明治19年に四日市製油(株)を設立し・英国人技師の指導のもとに最新式の輸入搾油機(アングロ・アメリカ式板絞水圧機)により,菜種油と胡麻油の搾油を開始した。その後明治23年に四日市製油が経営危機に陥った後を受けて,九鬼紋七が生産設備を譲り受け,(株)四日市製油所と名を改めて生産を継続した。大正7年に至り,満州から胡麻を輸入して,本格的な胡麻油生産に入った。その後,昭和43年に九鬼産業(株)と改称し現在に至っている。
こうした古くからのゴマ油搾油会社が集まり,日本胡麻油工業組合を結成するのは昭和15年5月30日のことである。理事長には竹本油脂の竹本長三郎が選ばれ,組合員は42社を数えた。この当時のゴマ油の原料はほとんどが満州から輸入されていたが,満州からの輸出が許可制になったことから,輸入許可運動を組合で取り組んだことが当時の残された文書から伺える。
当時の日本胡麻油工業組合員名簿には,原田清七(原田製油場),村田雅太郎(村田製油),関根喜兵衛(関根製油)といった今に続く胡麻油メーカーの名前も見える。

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