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油と歴史の話
行商人のはじまり その1

わが国の歴史学・社会学においては,戦前までは,日本は一貫して農業国家であったかのように扱われ,ともすると手工業・商業 に豊かな歴史と伝統があることが忘れられがちであった。柳田国男の民俗学におけ る常民の概念も,おおむね平地の農村に住む人々を対象としている。だが戦後,多くの歴史学者の研究によって,わが国における種々の産業の発達の歴史が,明らかにされつつある。 例えば,現在では農民にたいする蔑称として避けられている百姓という言葉は,元は字義通り百の姓,すなわちあらゆる産業に携わる一般庶民に対する総称であった。
商人の源流は,農民以外の非常民から起こったと推定される。古代の社会では,農民は自給自足の生活を営み,余剰鹿産物を外部に供給する余裕も必要もなかった。農村の生産物は何処も似たようなもので,交易が成立するだけの差異に乏しかった。しかし,定住しない漂泊民との間で,物々交換が行われた形跡はある。また,遠く隔たった漁村と山村などの間では,産品に 違いがあり, 足りない物を助け合う形で交換が行われた。そ れらの中に,商いの萌芽が見られる。
古代から中世にかけて,海人(あま)と呼ばれる集団があった。海人は, 海岸や島部に住んで漁労を生業としていたが,航海術に長けていたことから, 収穫した海産物を遠方まで売りに行くようになった。
中でも有名だったのが伊勢の海人であり,早くから小舟で海岸伝いに東海や瀬戸内まで行商に出ていたと伝えられている。海人の活動が松阪商人の起源ではないかとも言われている 。
一方,神社に奉仕する俗人である神人(じにん)として活動していた漁民の集団もある。賀茂御祖神社の社領であった摂津国長洲庄の漁民は,供御人ある いは神人として神僕の魚介類を奉ずるとともに,余剰の産物を各地に売りに行っていた。長洲に近い今宮には,広田神社に神人がいて, 全国を回り,魚介類以外の麦や絹なども販売した。
山人も,早くから職能民として自立 していった。山間部では自給自足が難しいので,旅職人として渡り歩く道を選ぶ者が多かった。彼らは木材の加工に長 じ,腕の良い者は,大工として,普請のある所に雇われた。それ以外の者は, 山の産物を持って行商に出かけた。山人の中でも,商人として特に活躍の目立ったのが,木地屋である。彼らは,里から離れた山あいの部落で,糎櫨を用いて椀などの木製品を製造し,これを売り歩いた。
鋳物師も,諸国を遍歴して仕事をした。彼らは,自己の製品の販売と修理の 請負仕事に留まらず,時として他人の製品を仕入れて販売した。荘園の発達が, 彼らの特殊な技能の需要を促した。農機具や武具,梵鐘などを製造するために, 荘園領主や寺社は鋳物師を重用し,多額の礼銭を支払ったのである。
山人や鋳物師には,戸簿を持たない浮浪人が多かった。彼らは常民の立ち入 らない場所に小屋をつくって,細工ものをした。その生活から河原者,坂の者, 散所などと呼ばれ,中世の産業の影の原動力となっていった。
古代においては,まだ固定化した店舗での販売は発達せず,商売の中心は行商であった。行商には,居住地の近くを売り歩く小商人と,全国を放浪する旅商人との区別が見られた。中世になって,都市では店舗営業が一般的になった後も,小商人は日帰りか一泊程度で都市を訪れ,棒を担いで振売を行った。都市の発達に伴い,種々の振売の姿は,都市の住民の需要を満たすためには,欠かせない存在となっていったのである。その中には,大山崎の油商人の姿もあった。室町時代に入ると,農閑期を利用した農民の出稼ぎの姿も数多く見られ, 江戸時代に禁止されるまで続いた。
近郊の農村から来た商人は,寺社の祭礼に合わせて出店するのが常であった。 奈良の輿福寺の大乗院には塩の本座と新座があったが,新座は,原則として町中で振売を行い,屋内では一切売らないことを定めていた。
小商人の場合,個々の売り上げは少なかったが,旅商人は,まとまった売り 上げを上げる存在であった。古代では,『日本書紀』欽明天皇(在位539?571 年)の条に,秦大津父が,山城から伊勢にかけて行商をしたことが記されてい る。この秦氏は,勢力のある帰化人であり,古くから商業に従事していたものと見られている。荘園の発達した平安時代には,行商人の数も増え,『伊勢物語』には,「田舎わたらひする人」,すなわち田舎へ行商に向かう人の記述が見られる。『新猿楽記』には,「利を重んじて,妻を知らず,身を念ひて他人を顧みず,その交易地は,北は陸奥から南は貴賀島(鬼界ケ島)に及び,その交易品は唐物四十五種,本朝物三十六種に上る」との記述がある。遠路運ばれる国産品の中には,化粧品の原料となる水銀,砂金,硫黄など,産出地が限られる上に産出量が少なく,生産・精製に技術を要するもの,すなわち高値で取り引きされる特殊産品が数多く見られた。
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