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油と歴史の話
東京油問屋組合の群像

震災の翌大正13年に東京油問屋市場の会員であった大手問屋が“東京油問屋組合”を設立した。
このメンバーは,大阪屋松沢孫八商店,山十島田新助商店,駿河屋藤田金之助商店,山崎屋油店,笹屋荻原利右エ門商店,三河屋伊藤平蔵商店,大国屋飯島録三郎商店,伊勢屋鈴木嘉助商店,山イゲタ館野栄吉商店の9店であった。以下,残された資料から,これらの大手問屋の内容を紹介したい。
通称大孫の,大阪屋松沢孫八商店(日本橋本石町)は,元禄年間に大阪より江戸に進出し,漢方薬の薬種問屋としてハゼ蝋などを扱っていたが,後に油を扱うようになり江戸最大の油問屋となった。大江戸10人衆にも挙げられ,将軍家へ献上した御用金も1万両にのぼったと伝えられる。明治時代の大孫の店員数は40〜50名おり,店に出入りする車力や遠方からの使い等が何時でも食事を取れるように,朝から夕方まで常に食事の用意がされていたという。また酒も「こもかぶり」が置いてあり,何時でも呑めるようになっていた。政府は明治22年に「維新前東京諸問屋商事慣例」という調査書をまとめているが,この時に江戸時代の油問屋の商売について取調べを受けたのは,松沢孫八商店の支配人・菊地治兵衛と油商・中伊右衛門であった。大孫商店が江戸を代表する油問屋と見なされていたことが分かる。この大孫商店からは,白鳥孝,小林善司(旧姓・松本善司)などが出ている。
藤田金之助商店の前身は駿河屋喜平治商店(日本橋通4丁目)であり,大孫商店に継ぐ江戸油問屋の大店であった。日本橋の高島屋の左筋向かいに300坪の店舗を構えていた。明治に入って東京に初めて電灯がついた時,日本橋通りではボウ大・西川商店,カク万・西川商店,カク石・駿河屋の3店に灯ったことで有名になった。菜種油も扱っていたが,その特徴はローソクにあった。ローソク工場を持ち,スタンダード石油のパラフィン蝋を輸入し加工して販売した。またビン付け油も大量に生産し,柳屋のビン付け油は駿河屋の菜種白絞油で製造した。大震災で大きな打撃を受けたことは前述した通りであるが,第一次大戦後に大阪支店が思惑で買った朝鮮白綿が大暴落したことによって大きな負債を背負い,日本橋本店の地上権(当時の金額で1,000万円)の売却へと追い込まれ,さしもの大間屋も疲弊することとなった。この駿河屋からは,須賀英次郎(後の東京油問屋市場理事長),柏原新之助などが出ている。
カネカの屋号を持つ伊勢屋鈴木嘉助商店(霊岸島)は,名前からも分かる通り伊勢の出身で,江戸時代から大孫,駿河屋と並び称せられた大手の油問屋であった。伊勢水とは深いつながりがあり,丹羽製油の久卜印や熊沢製油の一川印の菜種油も,伊勢屋が仕入れる分には伊勢屋の「手印」がすり込まれていた。一方,千葉の製油家群の商品も一手に扱うという幅広い商売を行っていた。カネカからは,伊藤金次郎,白石長三郎(大阪屋),河合延太郎(河合商店)などが出ている。いずれも伊勢屋出身だけに菜種油については深い知識と一家言を持つといわれていた。
大黒屋飯島録三郎商店(神田多町)は東京山崎講講元などを務めた江戸時代からの油問屋で,菜種油や胡麻油はもちろんのこと,綿実油は日華製油の関東における唯一の特約店として活躍した。昭和2年,「組合市場の大改築に際しても時節柄多少の非難ありしに拘らず,万難を排して理想的市場の建築を完成」(『油界百星』昭和3年10月28日中央経済社刊)したという。飯島録三郎は親子2代にわたり,東京油問屋市場の理事長を務めており,業界のリーダーとして活躍した。しかし昭和28年,理事長在任中に会社が倒産したため,理事長を同年9月5日付けで辞任することとなった。同商店からは,三和油店を創設した鈴木喜代治,鈴木直枝が出ている。
萩原利右衛門商店(本郷3丁目)の元祖萩原多兵衛は武州足立郡下笹目村の出で,寛文年間江戸に出稼ぎに出た。元禄(1888〜)の頃,本郷で質と米の商いを始め,屋号を「笹屋」と称した。蔵にあった看板には「米油質両替笹屋」とあった。4代目あたりから加賀藩などの御金御用達を務めたこともあって,「金貸し笹屋」の異名で通っていた。5代目は家訓3ヵ条「正直は一代の宝」「堪忍は生涯の相続」「慈悲は一切の祈祷」を残している。8代目が嘉永年間に油店を創業し,「株仲間」の復活にともない権利を買い取ったとされる。9代目を油屋の初代とし,利右衛門と改め,以後油店当主は「萩原利右衛門」を襲名することになる。9代目萩原多兵衛は明治45年に75歳で没したが,亡くなるまで「チョンマゲ」を取らず,油寄合所にも短い刀を1本ブチ込んで悠然とやってきたことから,「判官様」というニックネームがついたというエピソードが残っている。萩原商店からは人材が雲のように次から次へと現れた。熊井清一郎,山田権次郎(池田屋),梅本治郎(梅本油店),菅野今朝吉(三河屋油店),寺田松之助,竹内雅次郎(三英油店),葉岡辺幾太郎,大森四郎,中村定七,山崎多一郎(池田屋),石川平三(石川友三商店),河辺宇エ門(渡部油店)などである。
(資)池田屋商店の山崎(山田)権治郎は滋賀県の出身。わずかに11歳のとき,同郷出身の緑で本郷の笹屋・萩原商店に入る。明治36年,創業元禄13年の老舗「池田屋油店」を買い取り継承する。昭和6年合資会社とし,日清製油の特約店となる。昭和15年より山崎多一郎氏が代表社員となり,現在も御存命である。日石三菱特約店。氏は高輪危険物安全協会会長を30年以上,昭和43年から東京都油脂小売協組理事長を20年近く務めた。
現在の業界リーダーであるカネダ(株)の創設にも萩原商店は関わっている。「うちの祖先が本郷に野菜を売りに行った時に,その働きぶりを萩原利右衛門に見込まれ油屋を勧められたのが発端」と金田勝次東京油問屋市場名誉会長は語っている。多くしの業界のリーダーが,萩原商店の周辺から巣立ったのである。
ちなみにカネダ(株)の創業は嘉永5年と古いが,現在につながる形での草創は金田定兵衛が明治3年,浅草茅町に油屋“升定”を出したのが始まり。定兵衛の長女つるが由蔵と結婚して明治38年に升由油店を開業し,金田勝次氏は由蔵の4男として生まれたが,3人の兄が相次いで亡くなった。由蔵も昭和6年にこの世を去ったため,若干16歳の勝次氏が家業を継ぐこととなった。勝次氏は戦後の東京油問屋のリーダーとして活躍,理事長は1期3年で退いたが,実質的な業界のリーダーとして油問屋の発展に尽くした功績は大きい。また長男の金田達明氏も平成10年に東京油問屋市場の理事長に就任しており,今後の活躍が期待されている。
伊藤平蔵商店(日本橋小舟町)の伊藤平蔵は,代々“三河屋”加藤長九郎商店(四谷伝馬町)の番頭を勤めていたが,明治20年に7代目加藤長九郎の跡継ぎがいないことから営業権を譲り受けた。その後,9代目加藤長九郎が権利を買戻し三長・加藤長九郎商店に戻っている。三長は通称であり,正式な屋号は三河屋といい,大宮製油ミツワ印のゴマ油を毎日2〜3斗販売した。秤り売りで1升買ったお客さんには,余分に1合枡1杯をおまけしたため,大いにはやったという。
江戸の大店で初期の東京油問屋組合のリーダーであった枡屋・長谷部喜右衛門商店(日本橋大伝馬町)は14代将車の徳川家茂が日光東照宮参詣の際に腹痛を覚えたために,町人の家にも関わらず立ち寄ったという逸話が残されている。元々は木綿問屋だったのが水油に乗り出し,油が本業になったという。明治19年から5年にわたり,小倉常吉が長谷部商店の支配人を務めている。長谷部商店は明治の大きな変革を乗り切れず,大正7年頃に店を畳んでいる。
明治,大正の頃までの問屋には,優秀な番頭を婿養子にして店の後を継がせるという形が多く見られる。暖簾に誇りを持ち,その継続に強く執着した当時の問屋は,実子の相続には必ずしもこだわらず,親戚や使用人に優秀な適材がいれば,迎えて養子とした。反面,使用人の給金は安く,丁稚,小僧の間は商売を教えるという意識が強く,給金は払われず,労働時間も長かった。多くは14〜15歳で小僧として奉公に出て,3〜4年で中僧となり,10年ほどで能力のあるものは番頭となった。大きい店では番頭にも小番頭,中番頭,大番頭の格付けがあり,店全体の運営を任せられる大番頭は支配人と呼ばれた。番頭になると,早ければ25歳前後で独立し,店を持つこともできた。問屋によって,多くの人材を育て暖簾分けを行ったところもあれば,暖簾分けにあまり積極的でなかったところもある。東京油問屋市場の営業人の初代には,大店で10年以上の奉公を行い,その後暖簾分けという道筋を通って独立した人が多い。

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