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油と歴史の話
金田勝次東京油問屋市場名誉会長に聞く

金田勝次氏は大正3年2月16日東京に生まれる。昭和6年1月,父由蔵氏の死に伴い弱冠17歳にして油店“升由”を継ぎ,金田油店を経営。その後業績を伸ばすとともに取り扱い商品を広げ,社名も金田油化(株)カネダ(株)と変更。一方,東京油問屋市場,全国油脂販売業者連合会のリーダー,あるいは重鎮として活躍し,現在は名誉会長。

==19歳で東京油問屋市場に入会==
■金田さんは若くして店を継がれ,東京油問屋市場に入会された時も19歳と若い時だったですが,当時の油問屋市場は現在とは随分違っていたでしょうね。
私は昭和8年に油問屋市場に入れて頂いたんです。白石(長三郎)さん,大家(万蔵)さん,渋谷の三河屋さん,本所の滝沢さんなんかが一緒だったですね。当時は,ここ(人形町の東京油問屋事務所)で実際に取り引きがあったんです。ほとんどみんな着物なので,相手の袖の中に手を入れて握る指の本数で値段を決め,大体5箱,10缶単位の取り引きだった。それぞれのお店には番頭さん達が注文を取りにきました。うちには笹屋の寺田さんや飯島の池田さんがよく来られ,まず将棋板を出して,1番か2番やって,それから近所の鰻やかなんか行って,それじゃ何々を買おうとか取引をやりました。そういう商売です。実にのんびりした良き時代なんですよ。
実際に市場に出てくるのは旦那衆ではなく,番頭さんだけだった。市場に菜の花会というのと胡蝶会というグループがあって,菜の花会というのは大番頭さんの集まりで,たとえば館野の漆原(宗四郎)さんとか,島商の石坂(伊和雄)さん,カネ吉(飯島録三郎商店)では池田さん,笹屋さんでは寺田(松之助)さん,田宮(田宮太三郎商店)さんの田中次太郎さん,社長だけど森本(カ三)さん,そういう方が入っていた。菜の花会は,一杯飲むのも高級なところだった。胡蝶会というのは若手の集まりで,飯島の2人の鈴木(直枝,喜代治)さん,館野の深瀬(星之助)さん,穴水の岡田さんなんかがいまして,私も若手で胡蝶会に入りました。
■今と違って大卸と仲買の分担が割りとはっきりしていて,油は縦にすっと流れて行ってたみたいですね。
たとえば四日市製油の星印はカネ吉さんが東京の特約店で,カネ吉さんしか売れなかった。そういう時代だったんです。だから,みなさんが儲かった。一番悪いのは,300缶,500缶まとめて買うというと,メーカーが直接売っちゃうでしょう。メーカーは水道の蛇口を増やせば沢山売れると思う。ところが一定の量しか消費は増えない。流通というのは,本当は蛇口を増やさない方が順調に行くし,全体の利益が上がるんです。


==笹屋さんから人材が輩出==
■江戸時代から明治時代に栄えた大店は現在ほとんど姿を消していますが,今の市場営業人には・そういった大店から独立された方の店が沢山ありますね。
伊勢屋(鈴木嘉助商店,屋号・カネカ)さんは大きなお店で,ここの1番番頭さんが伊東金次郎さんで,2番番頭が河合さんのお父さん(延二郎・後に河合商店として独立)だった。白石さん(長三郎・後に油問屋市場理事長)は,その下におられた。
駿河屋(藤田金之助商店,屋号・カク石)で偉かったのは,須賀(英二郎・後に油市場理事長)さん。この人は大番頭だった。昔はご主人には仕事をさせないでみんな番頭さんがやったんです。その菅さんの下に柏原新之助さんがおられました。金原井筒堂(その後,金原銀行 − 三菱銀行に合併)さんには,白鳥(万蔵)さん(白鳥万蔵商店)や正木格三さん,北林(尚吉)さんもこの店にいた。芝の池田屋さんは,笹屋にいた山崎さんのお祖父さん(権次郎)さんが養子に行って今日も栄えています。
大孫(大阪屋孫八商店)は江戸10人衆に数えられた大店で,常時4万缶の在庫を持っていたそうで,ここには天草(三郎)さんが勤めていた。
井善さんと,大孫さん,カク石さん,笹屋さんは江戸時代から油屋として大店だった。島新さんも古いが江戸時代は雑貨屋で,明治になってから油も始められたと開いております。
山崎屋さんは離宮八幡様の講元で松阪屋の真ん前にありましたが,関東大震災の時に松阪屋が倒れたために焼失し,今は残っておりません。関東大震災で随分商売をよされた店がでました。
笹屋・萩原さんから出た人は随分多いですね。池田屋さんを建て直した山崎(権治郎)さん,竹内(得治郎)さんの店(三英油商店)もまだやってますね。梅本(治郎)さんは目黒に店を出した。中村定七さんは,立川に店(中村油店)を出した(これら以外に,大森良三・大森油店,菅野今朝吉・三河屋油店,川辺宇エ門・渡部油店など),大変多くの店が独立しております。また,田原香油の田原さんも古い油屋さんです。
うちの祖先の金田吉兵衛は嘉永3年に新潟から出てきて根岸に住まいを持ち,千住付近は青物の産地なので八百屋を始めました。車に積んで本郷付近へ売りに行ってたところ,笹屋の萩原(利右衛門)さんが,お前よく働くから油屋にならないかといわれて,嘉永の5年頃聖天町に油屋(現・マスキチ)を出したんです。だからずぶの素人なんです。萩原さんから頂いたものを売らしてもらつた。吉兵衛の長女の金田とくが分家して,浅草橋に店(升定)を出した。私の母つるがそこの長女で明治38年に養子(由蔵)をもらって,「升由」という屋号で油・両替店(現・カネダ(株))を出しました。
穴水さんは大正13年に甲府から東京に出てきた。甲州財閥で,東電を作った時の発起人の一人と開いています。岩出惣兵衛商店は肥料をやっておられて,養子の條三さんが油を扱い,東京油問屋市場の初代の理事長になられました。
渡部常治郎さんは浅田商店で,日清の特約店。亜麻仁油と桐油を売っていました。昭和産業の特約店だった安部幸さんもおられましたね。
昔の油問屋はそれは権威をもってましたね。三長の加藤長九郎さんは東京大学の農芸化学科出身のインテリでした。
富士銀行を創られた安田善次郎さんは,東京・人形町の大通りに油屋と両替屋を出すというのが夢だったらしいですよ。それだけ江戸から明治にかけては油屋に魅力があったんでしょうね。

==関東大震災で多くが廃業==
 ■関東大震災で,それまでの大店は大きな被害を受けて立ち直れないところも沢山あったようですね。
大震災では沢山の問屋さんが廃業してしまいました。震災の後も止めずに,活躍しておられたのは,美土代町の大家さん。大家文蔵さんは美土代町から独立して,高田馬場に店を出されました。それと小伝馬町の大崎さん,大宮商店の五月女(専三)さん,大島の森本(カ三)さん,池田屋(山崎権治郎)さん,大阪屋(白石長三郎)さん,白鳥(万蔵)さん,それに大釿の酒井(金次郎)さん,油惣の高石(秀治)さん。高石さんも大孫の店員でおられました。本所の林屋(小林)さん,向島の遠藤(慶吉)さん,伊豆安さんの番頭さんから独立された宇田川(喜三郎)さん。

==留置覚悟で警視庁で談判==
 ■戦争中も苦労されたことと思いますが,業界で特に取り組まれたことはありますか。
戦中戦後の思い出は,昭和13年5月に国家総動員法が発令された後,企業整備で兼業の石油の販売は一区1社以外のお店は皆,わずかな国債と引き替えに休店廃業となりました。その後,植物油の取扱所整備が始まり,小口工業用と家庭用食用油の配給所の指定が行われることになりました。そのため,油店の所在を記入した東京府全域の地図に対し,役人が赤鉛筆で簡単に廃業の×印をつけて行くのに対し,喧嘩腰で折衝し,古い歴史ある店を残したり,配給マージンの設定やら配給所の升の検査(度量衡)を手分けして歩いたり致しました。
その当時働かれていた方は,皆故人となられましたが,白鳥さん,白石さん,菱沼さんの先代の方々でした。戦争中は卸部門が蛎殻町に残り,我々は日本橋富沢町に事務所を移して配給業務を取り扱いました。
昭和18年に入り,国家総動員法による徴用令が市場営業人にくるようになり,若い人達は皆兵役に取られ,配給業務に支障をきたす状態になりました。そのため,白石長三郎氏と私は留置場に入れられることを覚悟して警視庁へ行き,担当警部達に食用油には食べると下痢をする油もあり,ドラム缶や斗缶は重くて女子供には取り扱いが困難である,なお危険物取扱免許証も取得する必要があると説明いたし,その結果卸業界で1番先に「徴用免除最低要員」を認めて頂いたことは,今日でも1番の思い出になっております。

==油脂商業報国隊を結成==
 ■それに関係して,油脂商業報国隊が結成されたと聞いていますが,この活動について話して頂けますか。
市場員ならびに社員で召集のきていない人達約30名で報国隊を結成して製油会社の工場に行き,捕虜の人達と一緒に貨車に荷物を積み込んだり,目黒や小名木川の貨物駅でマンガン鉱をかついだり,伝馬船で輸送されてくる配給の食用油ドラムを岸壁で荷揚げしたりと大変良く働いたものでした。なお,終戦が決まった昭和20年8月15日,天皇陛下の玉音放送を聞き,米軍が上陸してくれば問題になり罰せられると思いましたが,東京に残っていた隊員の皆さんと,本所三ツ目通りの地下タンクや川崎三井倉庫で,焼け残ったタンクにあった大豆油をドラム缶に詰め,都内そして7県の役所に連絡し各地からきた消防車に乗せて配付したり致しました。
今日まで油問屋市場運営に裏で働いた方々は,古谷氏(戦前),森居氏(戦後),遠山智秋氏,菅谷和衛氏,大迫俊正氏(現在)。そして,特に市場運営と油商会館に大きな功績のあった遠山氏と事務を一人で取り仕切って頂いている車谷頼子さんのことも忘れてはならないと思っております。
さて,油市場の歴史は,関東大震災や昭和初めの世界恐慌,大東亜戦争,新3品大暴落の朝鮮戦争後の大不況等,変動・変革・天災にも負けずに,この度めでたく創立100周年を迎えられるということは,誠にめでたいことで,永年の間,日本植物油協会会員様の絶大なるご支援と,関係官庁のご指導等のおかげと衷心より感謝致しつつ,市場の今日までの思い出の話しと致しました。

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