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油と歴史の話
行商人のはじまり その2

行商が本当の意味で日本列島を席巻するのは,荘園制が崩壊し,全国に大名の領地が形成された以降のことである。鎌倉時代に入って,貨幣が全国規模で流通したことも,商業の本格化を促した。京の商人が,次いで堺の商人が,全国の市場に姿を現した。堺の商人は,最初,地元の魚や塩を奈良近辺で売っていたが,後には東国に至るまで,諸物品を売り歩いた。近江商人も平安時代より活動し,伊勢商人も鎌倉時代末から,東海地方に進出していた。伊勢商人の起こりは,東海の地に数多く存在する皇大神宮の御厨・御薗の年貢を運搬する廻船業者だったと推定されているが,後に伊勢神宮の参拝客や,営利目的の物資の輸送に手を広げ,勢力を伸ばした。他にも,博多商人,日本海の敦賀商人,小浜商人などが次々に商売で名を馳せた。陸奥の十三湊の船も,蝦夷地の物産を本州に運んで販売していた。
かくして,都市と地方との間の取り引きは,日常的,組織的なものとなった。都市には,国名を冠した屋号の商人が多く住んでいた。京なら越後屋・若狭屋・奈良屋・淀屋・丹波屋・筑紫屋・豊後屋・備中屋・坂東屋,堺なら備中屋・奈良屋・日向屋といった面々である。これは,単に主の出身を示すものではなく,多くの場合,その地方の商人と密接な関係を保っていることを示していた。
行商人が使う便利な道具に,連雀という背負い粋があった。連雀という小鳥に似ていることから付いた名で,両手が自由で,かなりの量を背負えることから,長距離の人力輸送には,ほとんどこの道具が使われた。そのため,これを背負った姿が行商人の象徴となり,行商人は連雀商人と呼ばれることとなった。連雀に乗せる千多構には,油単と呼ばれる油紙を掛けて,商品を保護した。現在も各地に残る連雀の地名は,連雀商人が集まって形成していた連雀町に由来する。連雀町には,連雀頭がいて,役所としての連雀座が存在した。連雀座は,連雀役という税を徴収し,町内の取り締まりも行った。
古代から近世にかけて,非定住者同士の間に横の繋がりがあったことは既に述べたが,連雀商人の場合も,連雀の縄の結び目一つとっても,熊野権現を現す「龍の口」という結び方が広く行われ,修験道の影響が顕著に伺える。
平坦な都市では,肩に棒を担いで両端に物を吊るす方法が便利であった。中世の絵巻物,例えば『七十一番職人歌合』に登場する塩売り・油売り・瓦器売りなどは,一様に棒を担いでいる。都市部の行商が振売と呼ばれることが多いのは,この棒を担いだ姿のためであった。この棒が近世になってさらに工夫されたものが,天秤棒である。
商業が大規模化・常態化した15世紀には,行商人も自由に放浪することを止めて,店舗に定着し,そこを拠点に活動するのが普通になった。また,旅の時も,集団で移動して安全を図る光景が当たり前になった。一人気優に諸国を遍歴する物売りの姿は,もはや過去のものとなったのである。大山崎の油商人が地方に原料の荏胡麻を買い付けに行く時も,隊を組んで行動した。中世の商人が同業者組合である座を結成する背景にも,行商時の集団行動の必要性が上げられる。
個人の常設の小売店舗は,平安末期から一部には存在していた。『宇津保物語』には,京は七条大路の真申に魚と塩の店を構える女の話が出てくる。店舗売りが一般的になった応仁の乱以降は,奈良では,元亀3年(1572年)の調べで,世帯数の約3分の1が商人・工人の店や住居で,その種目は約50種に及んだとある。
商品を売る場所は,平安の昔から,棚と呼ばれていた。これは,文字通り,商品を置く棚を据え付けていたためである。鎌倉末期から,見世棚という言葉が使われたようで,『庭訓往来』には,「市町は通辻小路に見世棚を構えしむ」と書かれている。見世とは,やはり,人に見せるの意であろうと言われている。室町時代になると,この見世棚から,「店」という言葉ができる。だが,たなという言葉も生き延び,江戸時代には,店と書いて「たな」と読ませるのが普通であった。この時代には,屋号も使われるようになった。早いところでは,応安4年(1371年)頃の記録に,有馬街道の太田宿に的屋という宿屋が,播磨の八日市場にカヤ屋という宿屋がった。物を売る店では,応永13年(1407年)頃,京三条に,ネツミヤという店の記録がある。

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